消極的で自己主張をしない大人しい性格は悪なのか

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学生時代でも感じていたけど、社会人になってより強く感じることがある。

『大人しい』『引っ込み思案』『自己主張しない』『人見知り』『無口』『消極的』はたしてこういった性格は損なのだろうか。

性格に優劣は無く個性に過ぎない。その個性を生かせばいい。

というのが最近の論調だけど、現実はどうだろう。

厳密にはこれらの性格は似て非なるものである。

『大人しいけどちゃんと自己主張する人』はいるし『無口だが積極的な人』もいる。

とはいえ、これらの性格をまとめればなんとなく人物像はイメージできると思う。

いわゆる集団の中で目立たず、感情を露わにすることも無く、行動力も発言力もない、そういったタイプである。

今回語るのはそういったタイプの人間についてである。

なお内向的な性格で悩んでいる人は『内向的な性格の人の適職は?意外な強みと仕事に活かす方法を伝授する』も是非見て頂きたい。

結論 大人しくて消極的な性格はマイナスである

僕は大人しく自己主張ができない性格というのは現代の社会ではマイナスであると感じている。

消極的な性格は慎重とも言えるし、自己主張しない性格は控えめで他人の痛みがわかる性格とも言える。

それゆえ、性格には必ず良い面も悪い面もある。したがってソレは個性でしかない、決してマイナスなんかではない。という意見もある。

だけど現代社会に当てはめるとどうしても損することのほうが多い。

まず、自分が望む方向に進むためには、自分の意見を主張する事は避けられない。

これは集団に属している以上、何をするにせよ必ず他人に何らかの影響を与えるからだ。

他人を巻き込む場合、意見を主張する必要がある。(言葉だけでなく行動による主張含む)

(※この件については詳しくは他人との信頼関係を築くためには衝突は避けられないを参照してください)

しかし、大人しい人間は自己主張をすることが苦手である。

即ち、人と関わるなかで避けられない『自らの意思を通す』という行為に毎回疲弊することになる。

自分の意志を明確にしなければ望む方向へは進めないわけだから、毎回疲弊しながら進むか諦めるしか無い。

現代社会では「主張しない」ことは許されない

アメリカでは自己主張をしないと、そこにいないものとして扱われる。

海外では日本のような「奥ゆかしさ」や「遠慮する」「空気を読む」という文化があまりない。

互いにコミュニケーションを取るということは動物としての基本的な行動だ。

群れの中で生きていく以上、避けられない。

自己主張をしないということは、コミュニケーションを放棄することと同義であり、群れの一員と認められないという事だ。

たった一人無人島で自給自足している、というのならともかく、社会で多くの人(学校、会社)と関わり合いながら生きる以上、なんらか群れに所属しなければならない。

そこで自己主張が出来なければ群れの中で認められず軽んじられ、その立場も扱いも下層へと落ちていくだけだ。

以上のことから僕は『大人しく自己主張しない性格はマイナスである』と考える。

自己主張出来ない人とは

では次に自己主張しない、出来ない人の心理を掘り下げてみる。

個人の性格は幼少期の過ごし方や環境に依存するという。

別に自分がその性格を選んだわけではなく、物心ついたらそうなっているだけなのだ。

行動力があり人見知りしない、という人もまた、物心ついたときにそういった性格になっている。

自己主張や積極的な行動は出来る人は苦もなく出来るが、出来ない人には本当に難しい。

大人しい人に対し、自然と自己主張できる人が『ちゃんと自分の意見を言えよ!』というのは、自分の得意な土俵で意見を言っているにすぎない。

人間は自分が苦労したことがない事に関しては、苦労する人の気持ちはわからない。

世の中にはとことん自分を主張することが出来ない、という人もいる。

あらゆる不満や思いをおさえつけて、いつも我慢し自分の中に溜め込んでしまう。

一歩踏み出したくても動けない。

これは別に甘えでも何でもなくそのように育ったから、としか言いようがない。

物心つく頃に形成された性格は、ほぼ外的要因でしか無い。

結局全てはここから

本人の意思に関わらず環境によって性格が決まり、その性格が時に現代社会でマイナス要素となる。

ある意味理不尽とも言える。しかし『今』のこの状況がすべてである。

物心ついたときに出来上がっていた性格も、気がつけばコミュニケーションを必要とする群れに属している事も、そして群れから抜けて生きていく事が難しいと思う価値観さえも、望んで手に入れた事では無いかも知れない。

しかし、今ここにいるという事実だけが全てだ。

ただそれを持たずに今ここにいるという事実だけなのだ。

そもそも世の中は不条理や不公平だらけだ。

お金持ちの家庭に生まれた。

まともな教育も受けられない地域に生まれた。

親に愛されずに育った。

こういったものと同じで、自分の意志ではなく外的な要因によって、気がつけばその手持ちのカードでその場所に立っているのだ。

過去をいくら嘆いても、社会をいくら嘆いても、変えられるのは未来と自分だけ。

この世界で生きていくならば、現状を受け入れて耐えるか、そこで暮らしやすいように手持ちのカードを強化するしか無い。

大人しい人はどうやって生きていくべきか

性格を変える、と言うのは容易ではない。

自らの性格に逆らった行動は痛みや苦しみを伴う。

しかし、いい意味でも悪い意味でも『慣れる』ことは人間の脳の特性でもある。

変化によって伴う苦しみは、少しずつ慣れによって異常から正常へと脳が修正していく。

するとやがてその行動は変化と認識しなくなり、定着する。

人は与えられた役割を演じようとするという。

有名な話でスタンフォード監獄実験と言うものがある。

スタンフォード監獄実験(スタンフォードかんごくじっけん、英語: Stanford prison experiment)とは、アメリカ合衆国のスタンフォード大学で行われた、心理学の実験である。

心理学研究史の観点からは、ミルグラム実験(アイヒマン実験)のバリエーションとも考えられている。

1971年8月14日から1971年8月20日まで、アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、心理学者フィリップ・ジンバルドー (Philip Zimbardo) の指導の下に、刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験が行われた。

模型の刑務所(実験監獄)はスタンフォード大学地下実験室を改造したもので、実験期間は2週間の予定だった。

新聞広告などで集めた普通の大学生などの70人から選ばれた被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。

その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。

例えば、ある人がいきなり集団のリーダーという役割を与えられた場合、消極的なタイプの人であってもリーダーたる役割を演じようとする。

積極性や行動力を付けたければ、自らをその立場においやれば良い。

大人しい人はそういった機会があっても、きっと自分には出来ないと辞退するだろう。

だが、そこで一歩踏み出せれば後は脳が勝手に与えられた役割を演じようと行動する。

消極的な自分がリーダとして周りを引っ張っていけるだろうか。

などという心配は必要ない。

なぜなら勝手にその立場に合わせて行動するからだ。

乗ればそのまま目的地まで自動的に運んでくれる乗り物である。

したがってココで必要な勇気は乗り物に乗ることだけだ。

よく言われる一歩踏み出す勇気、というのはその言葉の通りである。

本当に一歩だけでいい。

あとは周りが連れて行ってくれるのだから。

最後に

この話は半分は僕自身への言葉であり、半分は僕と同じように積極性や行動力に欠け、前に進めずに迷っている人に向けた言葉である。

もっと若い頃ならばと思うような年齢であっても関係はない。

なぜならいつだって変えられるのは未来であり『全てはここから』なのだから。

おしまい

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